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  • 日中関係史 1500年の交流から読むアジアの未来

    日中関係史 1500年の交流から読むアジアの未来

    私の幼少期の記憶には、日本に関する二つの断片がある。

    母方の祖父の部屋には大きな書棚があり、古今中外の名著がぎっしりと詰まっていた。その書棚のガラス扉には一枚の大きな紅い布が掛けられており、そこには力強い筆致で「中日友好」の四文字が書かれていた。幼かった私には、その四文字に込められた感情の重みなど、知る由もなかった。

    私の叔母は若い頃に日本へ留学し、一人の日本人男性と出会った。後の私の伯父である。叔母が初めて伯父を連れて中国に帰省し、親族の集まりに参加したとき、私は中国語を話せないこの日本人を、ただ好奇の目で見つめていた。それから長い歳月が流れ、私は東京の病院で叔母に付き添い、伯父の最期を看取ることとなった。その時、私は悟ったのだ。家族の絆というものは、とうの昔に国境を越えていたのだと。

    中日両国の関係を一言で表すなら、私は「愛憎と恩讐」と呼ぶだろう。本書はまさに、両国の関係に着目した著作であり、特に隋唐時代、清末民初、そして改革開放という、両国が互いに深く学び合った三つの歴史的時期に焦点を当てている。中日両民族の間に横たわる複雑な感情を知りたいと願う人々、あるいは片方の国の歴史しか知らずにもう片方の視点も得たいと願う人々にとって、これほど公正で客観的な作品は他にない。著者であるエズラ・ヴォーゲル教授は、本書の中でこう記している。

    相手の国を嫌う多くの中国人や日本人が、西洋人の書いた中日関係の本に興味を示さないことは承知している。どれほど正確に書いたところで徒労に終わるかもしれない。しかし、本書は両国の人々の中で、私と同じように中日が互いに理解し合うことを願う人々のために書いたものである。両国に読者を持つ傍観者として、これは私の責任であると感じている。

    本書から得た最大の収穫は、既知の歴史に対する新たな知識ではなく、それがもたらしてくれた「正のエネルギー」とも言うべき感情にある。本書はヴォーゲル教授の遺作となった。一生を捧げて中国と日本を研究し続けた教授が、人生の最後に託した想いに触れ、私はただ「感無量」の一言に尽きる。

    中国語版の訳者序文には、非常に示唆に富む一節がある。

    ある西洋の学者が、近年の日中間の葛藤を『ごめんなさい』と『ありがとう』の二言で象徴的に表現した。中国は常に日本を責める。『ごめんなさい』という言葉が少なすぎ、誠実さが足りないと。一方で日本側は、改革開放以来、多額の経済援助によって中国の経済発展を支えてきた自負があり、中国側から十分な感謝の意、すなわち『ありがとう』の言葉がないことに不満を抱いている。

    実は、この構図は韓日関係にも当てはまる。かつて、ある日本の人気政治家がテレビ番組で、「植民地時代に日本は韓国に『進歩』をもたらしたのだから、韓国は日本にもっと感謝すべきだ」と発言するのを目にしたことがある。しかし、ひとたび民間レベルに目を向ければ、私の周りで国同士のいざこざのために顔を真っ赤にして争っている人など見たことがない。それよりも、職場の中国人と日本人の同僚がカラオケで『女人花』を合唱し、笑い合っているような光景こそが、私の日常にある。

    ヘルマン・ヘッセはかつてこう言った。「私は愛国者でありたい。だがその前に、私は『人間』である。もし両立できないのであれば、私は常に『人間』であることを選ぶ」と。私の祖父たちも旧革命家であり党員であったが、彼らの口から憎しみの言葉を聞いたことは一度もなかった。ヴォーゲル教授と同じように、平和を慈しみ、友情が永遠に続くことを願うことこそが、彼ら世代の最も素朴な情熱だった。

    幼い日の記憶にあるあの紅い布。歴史を遡れば、私たちの先人もまた「一衣帯水」の名を冠した画巻に、その筆を振るってきたではないか。私は、私たち世代、そして後に続く世代が、「人間」としての美しい徳を継承していくことを願ってやまない。おそらく、それこそが本書が私たちに伝えようとしているメッセージなのだろう。

  • 絶望を希望に変える経済学 社会の重大問題をどう解決するか

    絶望を希望に変える経済学 社会の重大問題をどう解決するか

    ウォーレン・バフェットがバークシャー・ハサウェイのCEOとして出席した最後の株主総会でのことだ。中国から来た一人の参加者の質問に対し、彼はこう答えた。「君は良い時代に生まれた。中国の歴史を振り返ってみてほしい。いつの時代に生まれたいと思うかね? 100年前か、500年前か、それとも1000年前か? それとも今か? 答えは明白だ。君は幸運な人間だよ。」

    確かに、私たちが生きるこの時代は「良い時代」だ。著書『FACTFULNESS(ファクトフルネス)』が明かしているように、世界に関するある種の真実は、一般に想像されているよりもずっと良い方向へ向かっている。しかし、視点を個人のレベルにまで拡大してみたらどうだろうか。「あなたは現在の社会環境や景気に満足していますか?」「これからの人生に不安を感じていませんか?」「あなたは幸せですか?」という問いに対し、私たちはまったく異なる結論を導き出すかもしれない。私たちが身を置くこの時代は、依然として「困難な時代」なのだ。

    移民について――社会問題の矛先を移民に向け、高い支持率を得る政治団体を目にするたび、その場所は相当な困難に直面しているのだと私は察する。しかし、政治家の語ることは真実なのだろうか。私たちは経済学者の意見にも耳を傾け、移民が経済にどのような影響を及ぼしているのかを知るべきではないだろうか。

    自由貿易について――一部の国々が関税の壁を築いて貿易の自由化を包囲し、それが世界規模の争いへと発展していく様を見るにつけ、私たちは困難な時代の渦中にいるのだと痛感する。「戦争に勝者はいない」とは使い古された言葉だが、経済学者の目には、自由貿易の問題はどう映っているのだろうか。

    経済成長について――『働かない権利』において、著者は社会学的な観点から「経済成長によって国家の繁栄を測るという時代遅れの思考を捨てるべきだ」と訴えた。しかし、政治的な視点に立てば、経済成長を放棄することは、国と国との駆け引きにおいて主導権を失うことを意味する。このジレンマに対し、経済学者はどのような見解を持っているのだろうか。

    『絶望を希望に変える経済学』は、まさにこうした問題を経済学者の視点から描き出した本である。本書が扱うテーマは幅広く、論証も極めて重厚でありながら、マクロ経済学の読み物として非常に分かりやすく、優れた一冊だ。

    最後に、私たちが生きているのは「良い時代」であり、同時に「困難な時代」でもあると言いたい。困難をより良いものへと変えていくには、一人ひとりの関心と参加が必要だ。本書の著者が述べるように、「経済学はあまりに重要であるため、すべてを経済学者に任せきりにしておくことはできない」のだから。

  • 働かない権利:労働への抵抗における理論と実践

    働かない権利:労働への抵抗における理論と実践

    あなたにこう問いかけたら、どう答えるだろうか。「一日の仕事はいつ始まり、いつ本当に終わるのか?」と。おそらく多くの人が、職場に出入りする瞬間や、タイムカードの記録といった指標を挙げて、容易に答えるかもしれない。

    しかし、よく考えてみてほしい。事実はそれほど単純ではない。仕事をしていない時間帯であっても、私たちの生活は絶え間なく仕事の影響を受け、支配されている。「仕事が入った」という一言は、私生活を即座に放り出すための正当な理由となり、旅行や通院の計画を立てるにしても、まずは仕事の段取りを完璧に整えてからでなければ安心することさえできない。

    非労働時間の潜在的な目的は、人々を再び働くための準備に備えさせることにある。つまり、「自由時間は、決して自由ではない」のだ。

    なぜなら、この世界は「労働こそが正義であり、労働こそが道徳である」という価値観を信奉しているからだ。この価値観に導かれ、多くの人々が仕事のために生きることを当然のこととして受け入れている。だが、本来、仕事と生活のどちらが手段であり、どちらが目的なのだろうか。

    残念なことに、「生活こそが正義であり、生活こそが道徳である」という言葉は、ほとんど聞いたことがない。私自身を振り返ってみても、入社して数年の「ハネムーン期」には、連休が長すぎると感じたものだ。ゴールデンウィークが七日間も続くと、終わりの方には退屈し始め、早く出勤して働きたいとさえ願っていた。

    バートランド・ラッセルはかつて、余暇の増加が退屈をもたらすと人々が危惧するならば、それは「我々の現在の文明に対する非難」と見なされるべきだと述べている。

    現代という時代は、余暇の退屈を非難してはいない。非難されているのは「働かないこと」である。働かないことは不正義であり、不道徳であるとされるのだ。自己紹介の場面を思い出してほしい。必ずと言っていいほど投げかけられる問いがある。「お仕事は何をされていますか?」

    「お仕事は何ですか?」という問いは、実のところ「あなたがいかに世界に貢献しているかを一言で要約せよ。その答えによってあなたを評価する」という意味であり、あるいは「あなたは知る価値のある人間か?」と問うているに等しい。

    しかし、まさにこのような時代において、現代社会における労働の意味や重要性に疑問を抱き始める人々が現れている。個人の危機によって能動的に「目覚めた」のか、あるいは社会環境によって受動的に「横たわる(寝そべり族)」ことを選んだのかはさておき、AI革命の真っ只中にある今、本書における思考こそが現代、そしてこれからの世代に必要とされるものだ。もちろん、今すぐ「仕事にノーを突きつけろ」と言っているわけではない。むしろ、著者が述べるように、

    私は、仕事の意味と未来をめぐる、活気に満ちた進歩的な議論が行われることを望んでいる。朝九時から夕方五時まで、月曜日から金曜日までという働き方は、比較的最近の発明であることを思い出し、仕事を分配する他の可能性を模索してほしい。伝統的に仕事の中で求められてきた喜びや連帯感を、別の方法で体験できる道はないか考えてほしい。仕事の外で多様で意味のある人生を追求する権利を守り、資本主義の営利追求のゲームに加担しない自己実現の方法を見つけ出してほしい。そのためには、経済成長によって国家の繁栄を測るという時代遅れの思考を根底から捨て去り、人間の進歩と幸福に関するもう一つのビジョン――健康、自由な時間、そして自身の潜在能力を実現する権利といった非物質的な富に基づいたビジョン――を受け入れる必要があるのだ。

  • 何もしないほうが得な日本 社会に広がる「消極的利己主義」の構造

    何もしないほうが得な日本 社会に広がる「消極的利己主義」の構造

    入社一年目の忘年会でのことだ。私はたまたま社長の隣の席に座った。私が入社して間もないことを知ると、社長は意味深な言葉を口にした。「入社したばかりの君には、周りのすべてが新鮮に映るだろうね……」

    意味深だったのは、社長が口にした前半部分ではなく、語られなかった後半部分だ。「……数年もすれば、君も他の連中と同じようになるだろうがね」と言いたげだった。

    確かに、働き始めて数年は新鮮で情熱に溢れていた。しかし数年が経つと、徐々に何かがおかしい、居心地が悪いと感じるようになった。その正体が何なのか、当時の私には分からなかったが、知りたかった。その答えを提示してくれたのが、「組織社会学の第一人者」として知られる太田肇教授である。

    太田教授の著書『個人を幸福にしない日本の組織』は、そのタイトルだけで核心を突いている。なぜ日本型組織は個人の幸福を阻む「枷」となってしまうのか。著書『同調圧力の正体』の中で、教授はその根本原因として、日本企業の「三種の神器」――終身雇用制、年功序列制、企業別労働組合――を挙げている。かつての「黄金時代」には、これらが社会の繁栄と景気を支えてきた。しかし時代は変わり、現代の社会背景において、この三種の神器が生み出したものこそが、本書の言う「何もしないほうが得な日本」なのである。

    周囲を見渡せば、「何もしないほうが得」という現象はあまりに一般的だ。ある程度の役職に達すると、多くの社員は積極的に努力することをやめ、「流して」働くようになる。年功序列ゆえに、努力したところでそれ以上のポストはない。一方で、人事評価に徹底した「減点主義」が貫かれているため、リスクを取らず、出る杭にならないことが最上策となる。また、終身雇用制度によって企業は余剰人員を容易に整理できないため、サボっていても解雇という罰を受けることはない。同時に、企業の利益と一蓮托生の企業内組合は、労使交渉において立場が極めて弱く、向上心を持つこと自体が無意味な情緒に成り下がってしまう。これらすべてが、消極的利己主義を信奉する「ベテランの老害」の勢力を拡大させる結果となった。このような日本型組織からはイノベーションなど生まれようもなく、グローバル化の荒波に立ち向かうこともできない。

    現在、私たちは日本型組織の崩壊の兆しを目の当たりにしている。新人の離職率は上昇し、管理職への昇進を望むベテランは減り続けている。賃金の伸びは物価上昇に追いつかず、一部の企業ではパフォーマンスが基準に達しなければ降格させる評価制度を導入し始めた。

    太田教授の本を読むたびに深い共感を覚えるとともに、提示される問題への「処方箋」を期待してしまう。しかし残念ながら、これまではなかなか決定打となる意見に出会えなかった。それは著者の技量不足ではなく、日本型組織の構造によって社会の病根が深く入り込みすぎているからだろう。だが幸いなことに、太田教授の最新刊『離職ゼロ。「自営型社員」が会社を変える!』では、ようやく納得のいく「解毒剤」が示された。すべてを解決する特効薬ではないかもしれないが、少なくとも希望を感じさせてくれる一冊である。

  • 21世紀の資本

    21世紀の資本

    考えてみれば奇妙なことだが、私は学校の授業で「経済学」という科目を学んだ記憶がまったくない。学校で教わった経済学的な知識といえば、マルクスの「剰余価値説」にまつわる断片的な記憶がわずかに残っている程度だろうか。しかし、社会の一員として、私たちは「哲学」や「歴史」、「政治」への無関心を表立って宣言することはできても、あるいはかつて学んだ「数理化」の公式をすべて教師に返上して忘れてしまったとしても、「経済」が自分と無関係であると言い切ることは不可能だ。

    YouTubeには、数百万人もの登録者を持つビジネス・経済チャンネル「小Lin説」があり、私もその熱心な視聴者の一人だ。初期の動画で、彼女は『黄金の落日』や『リーマン・ショックの真実』、『ヤバい経済学』といったストーリー性の強い作品を推薦していた。しかし、マクロ経済学に関する書籍については、あえて「空白」を残していたように思う。もしその空白を私が埋めるとするならば、真っ先に挙げるのはこの一冊、トマ・ピケティの『21世紀の資本』である。

    私がこの本を好む理由を、簡潔に述べたい。

    第一に、これは極めて「野心的な」本である。私はこれまで野心を謳う数多くの書籍を読んできたが、その多くは内容が散漫であったり、一部を全体と取り違えていたり、構造が緩慢でテーマが不明確なものばかりだった。だが、『21世紀の資本』は明らかにその類ではない。本書のテーマは、格差(あるいは富の分配の不平等)の歴史的変遷とその結末であり、その野心は世界全体に向けられている。野心といえば、かつてナポレオンは馬蹄と大砲で世界を征服しようとしたが、その野望が叶うことはなかった。しかしピケティは、たった一冊の本で、この世界の真実を白日の下にさらけ出してみせたのだ。

    第二に、この本は世界が「どうなっているか」を語るだけでなく、その背後にある深層的な理由、すなわち「なぜ世界はこのようになっているのか」を解き明かそうとしている。そこには多くの経済的概念や分析研究が含まれており、それゆえに本書は決して「読みやすい本」ではない。経済学部の現役学生でさえ「難解だ」と漏らすほどなのだから、私のような経済学を学んだことのない素人にとってはなおさらだ。しかし、読者諸氏には、この「難解」という言葉に怯まないでほしい。なぜなら、私たちが本書の中で理解できる部分だけでも、十分に一生ものの恩恵を受けられるからだ。

    最後に、もし私たちが「格差は解決すべき問題である」という認識で一致するならば、そこには「処方箋」が必要となる。そしてピケティは、その処方箋を提示する勇気を持っている。これこそが、本書において最も広く議論されている点だろう。あらゆる学問の中で、経済学ほど口論が絶えない分野はないと私は考えている。マクロ経済における諸問題が、一朝一夕や小手先の策で解決できるものではないことも分かっている。だが、私は著者の「捨て石」となる精神を高く評価したい。皆が議論に参加してこそ、思想や制度の進歩が生まれるのではないだろうか。

  • Hマートで泣きながら

    Hマートで泣きながら

    もし涙を求めているのなら、この物語を。

  • わたしの生涯

    わたしの生涯

    最近、ある親しい友人が私を訪ねてきた。彼女は森の中を長時間散歩して帰ってきたばかりだったので、何を見てきたのかと尋ねると、『特に何も』という答えが返ってきた。もし私がこうした答えに慣れていなかったら、信じられなかったかもしれない。なぜなら、ずっと以前から、目が見える人こそ何も見ていないのだと確信していたからだ。

    —— ヘレン・ケラー『もし三日間、目が見えたなら』


    ヘレン・ケラーの生涯を一言で要約するならば、ロマン・ロランのこの言葉以上にふさわしいものはないだろう。

    「世界にはたった一つの真の英雄主義しかない。それは、世界の真実を見極めた上で、なおそれを愛することである。」

  • 知られざるリンカーン

    知られざるリンカーン

    天の将に大任をこの人に降ろさんとするや、必ずまずその心志を苦しめ、その筋骨を労せしめ、その体膚を餓えさせ、その身を空乏にさせ、行なうことその為さんとするところを乱し、心を動かし性を忍ばせ、その能わざるところを増益させる。

    ——『孟子』


    リンカーンは偉人だろうか。

    いや、リンカーンは偉人ではない。

    リンカーンは、聖人である。

  • チャーチル:運命とともに歩む

    チャーチル:運命とともに歩む

    私たちは暗闇の中で悲しみと憂いに沈む。だが、星々が点灯し、その向こう側に常に別世界があることを思い出させてくれるのだ。

    —— ウィンストン・チャーチル『河川戦』


    これまで、私の中のチャーチル像といえば、歴史教科書の数行の記述に留まっており、彼がどのような人物であったのか、ほとんど何も知らなかった。なぜこれほど多くの人がチャーチルについて語り、本を読むのか。その好奇心に突き動かされてこの大著を手に取ったところ、私自身もその魅力に引き込まれ、ページをめくる手が止まらなくなった。

    チャーチルとは、一体どのような男だったのか。著者は本書の結語で、30以上もの名詞を並べて彼を定義している。私もそれに倣って、いくつか代表的なものを選んで彼を紹介してみよう。

    まず、チャーチルは真正の貴族であった。生涯を通じて身の回りの世話を誰かに委ねており、その育ちゆえに、自ら厨房に立って料理をするといった基本的な生活スキルは持ち合わせていなかった。しかし同時に、彼は公僕でもあった。その生涯を国家に捧げ、国民のために心血を注いだのである。

    戦争という危機の時代、チャーチルは自ら率先して動く結束の要であった。東側で攻撃を受ける同盟国と、西側で戦うことを躊躇する同盟国を、強固に結びつけた。そのために彼は旅する政治家となった。本書にはこう記されている。

    首相兼国防大臣としての1,900日間で、彼は船、列車、飛行機を乗り継ぎ、11万マイルを旅した。カイロへ4回、ワシントンとモスクワへ各3回、ケベックへ2回、そしてバミューダ、テヘラン、カサブランカ、イタリア、ノルマンディー、パリ、マルタ、ヤルタ、アテネ、ベルギー、ベルリン。

    また、チャーチルは不世出の文筆家・演説家でもあった。ノーベル文学賞は彼の至高の栄誉であり、選考理由はこう称えている。「歴史・伝記描写における熟達、ならびに至高の人類の価値を擁護するために示された輝かしい演説に対して」。同時に、彼はユーモアの達人でもあった。解放されたばかりのパリでの演説前、彼は聴衆にこう警告した。

    「皆様に警告しておきます。注意して聞いてください。これから私はフランス語を話そう(試みよう)としています。これは非常に恐ろしい任務であり、皆様の英国に対する友情を試すことになるでしょうから。」

    最後に、チャーチルは筋金入りの泣き虫でもあった。皮肉にもその感情の豊かさゆえか、大酒飲みであったにもかかわらず90歳まで生き、長寿の象徴となった。彼は生前、多くの親しい顔を見送った。国王、同僚、そして戦友たち。晩年の彼は政界のマスコットであり生ける伝説となり、若きエリートたちの憧れの的となった。

    チャーチルの生涯は、「偉人」という二文字の定義を完璧に体現している。一人の人間として、これほどまでに濃密な人生を歩めるのであれば、それは間違いなく「最高の人生」だったと言えるだろう。

  • 小保方晴子日記

    小保方晴子日記

    小保方晴子の手記『あの日』を読み終えた後、私の心はいつまでも静まることがなかった。それは科学的な真実への関心からではなく、この社会が持つ真実――その冷淡さと無情さを突きつけられたからである。

    自分の意思とは無関係に命が尽きそうだ、と感じた時、目の前に浮かぶのは今にも消えそうなロウソクの火。

    生命とは、この冷たく、灰色の世界で無力に揺らめく微かな灯火のようなものだ。全身を覆い尽くす憂鬱、病に蹂躙された肉体、眠れぬ夜。薬の力を借りてようやく眠りについても、目覚める直前まで繰り返される悪夢。怒り、悔しさ、疑念、孤独、恐怖……あらゆる負の感情に一分一秒たりとも休まることなく支配される。それに対抗する術といえば、ただ流し続ける涙しかない。人は一体、どうやって生きていけばいいのだろうか。

    消えてほしくないと焦った気持ちは本能だった。幾度となくその焦りを経験し、いっそそのこと吹き消してしまいたいという衝動にも駆られながら必死に守っていた。

    それは、希望なのだろうか。パンドラの箱の底に封印された、最後の希望。目には見えても決して手に入らない希望。生きている人々に何度も苦痛と絶望を与えるために存在する希望。滑稽な希望。罪深き希望。いや、希望ではない。この世にはきっと、人が生き抜くための別の力が存在するはずだ。

    ずっと自分の火を一人で守ってきたと思っていた。でも私にはロウソクが消えそうになっても火を分けてくれる人がいたと知ったのだ。

    それは、人と人との「繋がり」である。最も信頼する親友たちからの友情であり、かけがえのない家族からの愛情である。社会の中で自分を理解し、励まし、手を差し伸べてくれた人々からの同情であり、自分を一人の人間として扱ってくれたすべての人々からの共感である。それは「愛」という名に他ならない。愛があってこそ、この世界にはようやく温もりが宿り、色彩が生まれるのだ。

    私は分けられた火をまた誰かに分けながら生きていく。今日の日記にはそう書くつもりだ。

    最後の一行を読み終えた時、涙が溢れて止まらなかった。