処世術を記した古典といえば、多くの人はマルクス・アウレリウスの『自省録』を思い浮かべるだろう。しかし、東洋からその代表を選ぶなら、私はこの『菜根譚』を推したい。
古代中国には多種多様な哲学流派があり、中国語ではそれらを「三教九流」と総称する。「三教」とはすなわち、儒教、道教、仏教を指すが、それぞれに独自の経典があり、独自の主張がある。しかし、『菜根譚』はこの三家の思想を余すところなく網羅しており、まさに「奇書」と呼ぶにふさわしい一冊だ。
儒教思想の核心は、家族、教育、礼節を重んじることにあり、それは現代においても中国やその隣国の社会価値観に深く根付いている。また、儒教は人々に「中庸」であることを説く。「中庸」とは何か?『菜根譚』にある次の一節は、極めて中庸的であり、これこそが東洋人の性格における「含蓄」、「内省」、「謙遜」の根源と言えるかもしれない。
世に処しては宜しく俗と同ずべからず、また宜しく俗と異るべからず。事をなすには宜しく人を厭わしむべからず、また宜しく人を喜ばしむべからず。
(処世にあたっては、世俗に流されてはならないが、頑なに世俗を拒んでもいけない。物事を行うときは、人に嫌われてはならないが、かといって人に媚びて喜ばれようとしてもいけない。)
道教の核心思想を二つの言葉で括るなら、「無為」と「自然」である。現代社会において、「無為にして治まる」国家はもはや存在しがたい。しかし、清心寡欲や、自然と調和した生き方を追求する人々は、今なお至る所で見受けられる。例えば、次の一節のように。
人となるに甚だ高遠なる事業なくとも、俗情を擺脱し得れば、便ち名流に入らん。学をなすに甚だ増益の工夫なくとも、物累を滅除し得れば、便ち聖境を超えん。
(人として生きるのに、何も遠大な事業を成し遂げる必要はない。世俗的な欲望から抜け出すことができれば、それだけで名士の仲間入りだ。学問を志すのに、特別な知識を積み上げる必要はない。物に執着する心を消し去ることができれば、それだけで聖人の境地を超えられる。)
仏教は「出世」の哲学である。出世間と入世についての見解は、『東洋哲学』の中で詳しく展開しようと考えている。ここではまず、次の一句が示す静謐な意境を味わってみよう。
孤雲岫を出て、去留一に繋わる所なく、朗鏡空に懸かりて、静躁両ながら相干さず。
(ぽつんと浮かぶ雲が山から出ていくように、去るも留まるも何にも縛られない。曇りのない鏡が空に掛かっているように、静かであろうと騒がしかろうと、自分には何の影響もない。)
最後に一言付け加えたい。私にとって、訳注のない古文を読むことは「霧の中で花を見る」ようなものだ。ゆえに、霍明琨先生の版は、素晴らしい現代語訳だけでなく、一則ごとに解説が付されており、実に見事である。また、お子さんや忙しい合間に一息つきたい読者には、蔡志忠氏の漫画版も良い選択肢となるだろう。
